ほっかいどう元気びと

バックナンバー一覧へ

2011年8月28日のゲスト

丸井 宏之さん
「第1回北オホーツク100キロマラソン」
実行委員会事務局次長
丸井宏之さんの写真

兵庫県西宮市出身。
関西大学3年生の時に一人旅で浜頓別を訪れて自然の豊かさ魅了され、それ以来毎年のように浜頓別に通い続ける。
大学を卒業後は、JTB大阪支店に勤務し2007年から北海道勤務となり札幌へ。
その後浜頓別のまちおこしを応援する東京の大学生グループ「クッチャロ湖プロジェクト」がきっかけとなり、「第1回北オホーツク100キロマラソン」を提案、参加ツアーを企画。浜頓別町を発着点に、宗谷管内の風景を堪能しながらマラソンを楽しめる大会として、8月21日に開催された。

村井裕子のインタビュー後記

丸山宏之さん ここ数年の私を取り巻く「マラソン包囲網」は、何か意図的な力が働いているのかと思うほど、手を変え品を変え、ひたひたと迫ってくるものがあった。
 担当する各地の講座に出向くと、受講生の中にはマラソン愛好家が必ずいる。そして、代わる代わる私にこう囁く。
 「先生、走るっていいですよ」「今年もホノルルマラソンに行ってきます」
 中学の同級生から突然メール。
 「同じクラスだったMちゃん、東京マラソンに出るんだって!」(しかも、完走!)
 走る人がこんなにいるのか・・と思うまもなく、ふと、大好きな作家村上春樹さんがマラソンについて書いている文章に出くわす。曰く、
 作家という職業、物語を生み出すというのは強い肉体を維持しなければできない。いい小説を書き続けるために、自分は走り続ける。そうして、作家としての自分の技術に信頼を持つようになった。つまり、どれだけ厳しく、どこまで自分を追い込めるのかがわかった。――
 確かそんな内容の文章だったと思うが、このストイックな真摯さに打たれ、突如私の脳内マラソンスイッチがONになった!
 これまでに、すでに周りの人たちによって引かれていた「配線」はすべて繋がり、真夏の8月、何かに引っ張られるように走り始めた。
 きっと、このスイッチがOFFの時なら、今回のゲストの丸山宏之さんが発案し形にした「第1回 北オホーツク100キロマラソン」のインタビューへの思いは、もう少し違ったものになっていただろう。「走る人」の爽快感を想像し、お話を伺うことができて嬉しかった。

丸山宏之さん 「北オホーツク100キロマラソン」の主な舞台は、宗谷管内の浜頓別町。クッチャロ湖をぐるりと巡るコースだ。
 海道地図で言うと、「ずっとずっと上の、右の方」。少し北上すると、もう日本最北の宗谷岬に辿り着く、オホーツクに面した漁業と酪農の町だ。
 この浜頓別町に、学生だった丸山さんは惚れ込んだ。
 若き悩みも抱えていた頃。受け入れてくれた町の人たちの温かさや親切、そして、大平原の中真っ直ぐに続く道路など、関西では見たことのないような風景に、モヤモヤも消えて行くのを感じたそうだ。
 それから毎年のように訪れていったのは、「何か、自分の心の中の碑のようなものがそこに出来たのでしょう」という。定期的に来ることにより、「今年も頑張れて、ここに来られたな」とか、「思いはぶれていないな」など、自分の心の真ん中を静かに確認するような旅が出来た地なのだという。
 その後、旅行会社の分社化で札幌への移転を希望し、さあ浜頓別へ恩返しをという思いでマラソン大会を思いついたというから、強い吸引力が浜頓別と丸井さんの間に互いに働いていたのだろう。
 「頑張っている人に石は投げへんやろ」と、かつての関西の先輩が言ってくれた言葉を糧に、「一生懸命やっていると伝わる」ということを信じながら、大会を形にするために町の人たちに思いを語り続けていって、ひとり、またひとりと人が繋がっていったそうだ。
 丸井さん自身はマラソンランナーではないそうだが、きっと「走る人の、さらに遠くへという思い」が、そんな自分の思いと重なるのだろうと思う。
 恩返しのイベント「北オホーツク100キロマラソン」のスタートは今切ったばかり。 この先、大会を成長させていくため、浜頓別が大好きな人たちとともに先へ先へと走り続けていくのだろう。

 村上春樹さんのインタビュー集「夢を見るために、毎朝僕は目覚めるのです」の中、村上さんがマラソンへの思いを語った後に、「墓碑銘に刻んでもらいたいと思っている文句」としてこう言っている。
 『少なくとも最後まで歩かなかった』、墓石にそう刻んでもらいたい、と。

 何をするにしろ、そんな走り・・そんな人生は、素敵だ。

(インタビュー後記 村井裕子)

ほっかいどう元気びとTOPへ▲UP