ほっかいどう元気びと

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2018年1月7日のゲスト

船木 和喜さん
スキージャンプ選手 「株式会社F.I.T」代表
船木和喜さん

余市町出身。42歳。
10歳からスキージャンプを始める。中体連で日本一に、小樽北照高校時代にはインターハイ、国体などで活躍。
卒業後デサントチームに入り、ワールドカップ日本最多勝利数16勝を保持、長野オリンピックでは男子ラージヒル団体と個人の2種目で金メダルを獲得するなど多くの成績をおさめる。1999年、所属企業を退社しクラブチームを設立。
さらに2008年に生まれ故郷 余市産のりんごを使ったアップルパイを販売する事業もスタートさせ、その売り上げでスキージャンプをする子どもたちの支援を続けている。

村井裕子のインタビュー後記

 新年明けましておめでとうございます。今年も、『ほっかいどう元気びと』をどうぞよろしくお願いいたします。

船木和喜さん 2018年最初のゲストは、1998年の長野オリンピック、男子ラージヒル団体・個人の金メダリスト 船木和喜さん 42歳。今もスキージャンプの現役選手であり、そして、「株式会社 F.I.T」の代表でもある。あれから20年の歳月の中で、どんなことを思い、どんなことに取り組んできたのか、お話を伺った。
 私達スポーツを観戦する側は、アスリートが勝利に向けて努力する姿や、最大限力を発揮しようと頑張る姿、そして、結果を出すその瞬間に立ち会い、とてつもなく大きなエネルギーをいただく。
 世界一や日本一、或いは金メダル獲得はその最高の到達点だ。“観客達”は彼らに感謝しながらまた次なる感動を追い求めていくだろう。もしもそれがドラマや映画だったなら、その最高潮で終わらせることも出来る。しかし、その当人にとっては“その後”も続く。そして、表舞台からの引退もいずれは余儀なくされる。そこにどう向き合うのか・・・。
 私自身、スポーツ選手が“どう目標を達成していくのか”ということと同じ位興味があるのが、達成した“その後”だ。目指す高みの場所も標高も違うが、普通の日々にもヒントになることがきっとあると思うからだ。

 船木さんは、長野で金メダリストになったその翌年に所属企業を辞めて会社を興し、スポンサー収入と賞金に頼るプロとして活動を始めている。自分で何でもやってみるのが好きだったからと独立を選んだ理由を話していたが、勿論それだけではなく、金メダルを獲った者としてその責任をどう果たせるのかということも頭の中にあったという。あれこれ考えても全くわからないので、1972年の札幌五輪で金銀銅のメダルを独占し日の丸飛行隊と呼ばれた笠谷幸生さん、金野昭次さん、青地清二さんに話を訊きに行ったのだそうだ。
 「わからないことは、教えて欲しいと訊きに行くんです」と、船木さんはその後のひとつひとつのやり方を一から教わり、調べて、動いてみて形にしていった取り組みをひょうひょうと話す。
 自分が関わってひとつの目的を果たすことが出来たスキージャンプというスポーツに対し、次へ続く後進を育て、競技の面白さを広く伝えるための後押しをしなければと考え、クラブチームを作り、専門学校にスキー部を作り、子供達がジャンプの面白さに触れられるようにと小さなジャンプ台を作るなどの取り組みを続けてきたという船木さん。
 そんな中で後進を支援するための資金づくりのひとつがアップルパイの販売だったそう。出身地である余市の林檎を使ったアップルパイを作り、全国の百貨店を船木さん自身が回って、期間限定の催事などで売っているとのこと。そのひとつひとつのノウハウもすべて一からの取り組みで、余市に足を運び、農家の人達に作り方を教わり、社内に「食品事業部」を立ち上げて、運営してきたという。
 「今朝、僕が作ってきたんです。食べてみてください」と言って、この日持って来てくださったアップルパイは、船木さんのお手製とのこと。聞けば、作り方を奥さんに手ほどきされ、自分でも作れるようになったとのこと。これも、「教えて欲しい」と訊いて、やってみたからこその成果。その素直な姿勢に微笑ましくなる。
 上手く出来ていると思いますよと渡してくださった“金メダルと同じ重さ”のアップルパイは、とても素朴で懐かしい味わいだったが、あの、長野五輪の観客熱狂の中で美しいジャンプを決めた船木さんが様々な軌跡を辿った後に、後進達を思ってこれを手掛けているのだなぁと思うと、その味わいも倍増する思いだった。

船木和喜さん 金メダルを獲った人のその後というのは、そこに到達しなかった人よりも、そこから先の進む道というのは遥かに難しいに違いない。例えば、何かに成功した人や何かの頂点に立った人はその“高み”に上がった分だけ、その後の人生のハードルはとてつもなく高くなるはず。目に見えない誰かが設定するハードル。天が課したトライアル。そこに“慢心”や“我欲”という魔が差すと難易度はさらに上がり、容赦なく振り落とされる。
 船木さんは、「人としてさらなる高い山を目指すには、登った山をいったん下りて、そこからまた登る」と話されていたが、わからないことは人に訊きに行くということ、知らないことは教えて貰い、自分で学んでみるということ、アップルパイの販売のために人に会いに行き、その意味を説明し、頭を下げるということ・・・それらすべてを人任せにせずに自分で汗をかくということが、「登った山をいったん下りる」ということなのだろうと思う。
 「でも、自分に出来る範囲でしかやれません。事業をもっと拡大したら・・・と言う人もいるけど、僕、基本的にビビリなので・・・」というのは、収録後の対話の中で出てきた言葉。
 「ビビリなので・・・」という人があんな空中をスキー板で飛んで地上に降りてくるなんて。いや、しかし、小心だからこそ成し遂げられることの中に大切なことがあるかもしれない。
 登ったり下りたりを繰り返していく“一生涯という山登り”。金メダリストであろうが、毎日林檎を作っている人であろうが、形の無いものを創る仕事をしている人であろうが、ルーティンの仕事をしている人であろうが、「これだけやったから大丈夫」と思える何かを自分で獲得し、さらには、「誰かのための一歩」を踏み出すことで得られる気づきがあるのだろうと思う。

 2018年、今年は、“登る坂道”を動じずに進みますと、初詣で誓う。「動じずに」は思わず出た言葉。干支が一巡する節目の年を迎えたからか。論語で言えば、「六十にして耳順う(みみしたがう)・・・耳にどんな話が聞こえても動揺せず、素直に受け入れることが出来る」という、新しい自分に出会える進境。なるほど、若い頃の自分を振り返ると、“耳順”とは程遠く、警戒する時の犬の耳のように過敏な反応ばかりしていたが、ここにきて、「まあ、いいか。それもあり」といった“受け入れ力”が年齢のなせる業かと腑に落ちる。
 この一年も、さらに耳も気持ちも柔軟に。『元気びと』で出会うおひとりおひとりの話を一心に聴かせていただきながら、気づいた大切なことをひとつひとつお伝えしていこうと思っている。

(インタビュー後記 村井裕子)

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