村井裕子のインタビュー後記

はじめに
毎週日曜朝9:30から放送の『ほっかいどう元気びと』では、様々な場で活躍している人たちへのインタビューを通し、「人が前に進む力はどこから出てくるのか」「人は逆境や困難な時にどんな発想で切り抜けるのか」など、それぞれが辿ってきた道のりから、その原動力にスポットを当てています。

東日本大震災が起こってまだ日が浅い2011年の春から、この番組は始まりました。
世界が大きく変わってしまった中で、私たち皆がひとりひとり、「自分は何が出来るのだろう」と様々なことを真剣に考えるようになっている中、この番組でも、「大事なことはなんだろう」「気づかなくてはいけないことはなんだろう」という視点で、これから先の前に進むヒントを探していきたいと考えています。

人の中には、自分でもまだわかっていない新たな「力」が隠されています。それは、順風の時には案外見つけられないもの。逆風だからこそ発揮出来るものがあるはず。

そんな、人の中の「宝もの」に光をあてることで発せられる言葉の数々に、ラジオをお聴きの皆さんと共感することが出来たら幸いです。

「村井裕子のインタビュー後記」は、対談後、そんな言葉の数々から、私自身が感じた「大切なこと」を毎週綴っています。番組を聴いた後に、その言葉たちをもう一度噛みしめる、心豊かな場になりますように。

4月30日放送

 白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫がいわゆる“三種の神器”だった1950年代後半に生まれた私は、まさしくテレビっ子世代。「鉄腕アトム」や「ウルトラマン」は勿論だが、小さな頃からドラマの面白さに目覚め、岩手に住んでいながら「東芝日曜劇場」の北海道放送制作の回が大好きだった。エンドロールを締めくくる当時の「北海道放送」の縦書きロゴがとても鮮やかに記憶に残っていて、その文字が看板になって掲げられている北海道放送に入社した時には不思議な感慨を覚えたものだ。
 その「日曜劇場」と同時代に他局で一大ブームを巻き起こしたのが三浦綾子さん原作の「氷点」。オリジナル放送当時小学生だった私に物語の神髄が理解出来るはずもなかったが、旭川の雪の風景と“陽子”の心情はとても切なく記憶に刻まれている。当時その放送時間には銭湯もガラガラになる程の人気だったと思うが、私が原作者である三浦さんのほんとうの凄さを知るのはそこからさらに何年も後、数々の作品を手に取ってからのことだ。そこに込められていたのは、なんというか終戦間もない昭和という時代が求めていた心の軸のようなものだったのではないかと、言葉のひとつひとつを何度も噛み締めた覚えがある。
 そんな三浦さんの“凄さ”を亡くなった後もずっと途切れることなく守り続けてきたのが、「三浦綾子記念文学館」を支える人達。民間が母体という全国でも珍しいその文学館の三代目館長がこの春に就任とのことで、「ほっかいどう元気びと」にお迎えした。

田中綾さん 大役を担うことになったのは文芸評論家で歌人でもある田中綾さん 47歳。札幌の北海学園大学人文学部では「近現代文学史」を教え、短歌創作指導にも尽力する教授でもあるので、旭川に通いながらの八面六臂の活躍だ。
 田中さんの三浦綾子作品との出会いは長編小説の『銃口』。日中戦争下の言論統制と短歌についてをテーマにした大学院の修士論文の参考文献として読んだのが最初だったという。戦時中の教員弾圧「北海道綴り方教育連盟事件」を題材にした三浦さん最後の長編作品だが、田中さんは、何と言っても三浦さんの取材力が素晴らしく、それでいてエンターテインメント性にも優れていたことにも驚いたと、作品との出会いの感動を丁寧に教えてくれる。
 おお、そうなのか・・・と、個人的に感慨深かったのは、田中さんが『氷点』ブーム後の生まれということ。三浦綾子さんを世に送り出した『氷点』後の世代の館長が誕生するとは“新しい時代”の到来だなぁと思い、その年代から見た三浦さんとはどんな存在なのか、作品から何を感じたのか、幾つも問いかけを重ねていった。

 短歌研究を専門にする田中さんは、あまり知られていない三浦さんの短歌に光を当てようと“堀田綾子”時代に詠んだ作品の発掘に以前から取り組んでいたのだそうだが、本格的に小説や随筆に触れるようになったのは2011年。小中高生対象の「三浦綾子作文賞」の審査員になってからだという。『氷点』は勿論、『塩狩峠』『泥流地帯』『ひつじが丘』などをまんべんなく読むことで深く入り込んでいったのだそうだ。
 「むしろ今読んだ方が良かったのかなと思う」と言うので、その魅力をさらに訊いていく。田中さんは、「子供の頃からずっと自信がなく、いつもいつもコンプレックスを抱えていました」という“生きづらさ”を率直に話してくれる。競争社会、スピード社会から来るその辛さが、三浦綾子さんの小説に込められた「生きること・愛すること・許すこと」という普遍的なテーマに触れることで、「人間っていろんなことがある。だから、あなただって生きていていいんだよ」と背中を押して貰え、とても救われるような感覚になれたのだという。
 子供の頃から出会ってきた小説に強さを貰い、その都度小説に救われ、その延長線上で三浦綾子作品にも出会ってここまで支えられてきたのだという思いを紐解き、さらに、今の時代は若者達もいろいろな“生きづらさ”を感じている。だからこそ、三浦さんの「大丈夫、試練はあるけれど、こうやって皆生きている。あなただって大丈夫、生きていける」というメッセージを今の人達にも是非感じて欲しいと続ける。
田中綾さん “文学の力”を若い人達にどう伝えたいと思っていますか?という問いには、今の学生達はとても真面目だけれど、他者を気にし過ぎるところがある。それは自己肯定感に若干欠ける部分かもしれない。だからこそ他人からの評価が欲しいのだと思うと分析していき、「それは、私と同じ」と自己分析を加え、「だから、私がしてきたことを伝えたら通じるものがあると思っている」と文脈を繋げていく。田中さんの大切にしているテーマはそこなのだなぁと腑に落ちる。人文学という学問を自己の“経験則”というフィルターを通して、どう“人の生きる力”に繋げ、伝えるのか・・・という、それは田中さんの中で悩みながら見つけた“一生もの”のテーマなのだろうと思う。
 お話の中の表現で心にとまったのが、「傷つきやすい人」というキーワード。「どの時代でも傷つきやすい人はいる」とさりげなく付け足した一言だったが、三浦綾子さんご自身もその概念をとても大切にされていたのではないかとふと思う。傷つきやすい人がどう生きていくか。傷つきやすい人が何をよすがにしていくのか。傷つきやすい人を何が支えられるのか。傷つきやすい人の中にある力は何なのか・・・。田中さんは、「人文学とは、人間のことを徹底的に突き詰めていくもの。この社会で生きていくために重要なことを伝えている学問」と表現していたが、三浦さんの作品というのは、傷つきやすかったり、弱かったりという“人間のことを徹底的に突き詰めていった”小説だったからこそ、こんなふうに時代を超えても色あせるどころか益々その普遍が多くの人を支え、生きる力を感じさせているのではないかと、終了後もしみじみ考えさせていただいたインタビューだった。

 田中さんは、現在大学のゼミでは学生達と三浦作品の構造分析などに取り組んでいるそうだが、今後はさらに、スマホやネットを使いこなす学生達と協力し合いながら、若い読者層にも作品を手渡す方法なども新たに考えていきたいと話されていた。1970年代生まれの「三浦綾子記念文学館」館長の役割はきっとそういうところにもあるに違いない。田中さんご自身が橋渡しとなって、さらに次の世代に北海道の文学という財産を受け渡していくという役割が。
 『氷点』が人気を呼び、“三種の神器”がキーワードとなっていた今から半世紀前、盛んに喧伝されていた言葉は「もはや戦後ではない」だった。ここから日本は経済もさらに発展し、平和も続いていくのだと信じていた時代。それでも何か自分自身の忸怩たる体験を通して戦争の過ちというものを伝えておかなければならないと、三浦さんは思いを振り絞るようにその後の『銃口』や『母』を書いたのではないかと思う。
 時々でうねりのように流されることもある時代の中で、人は何が出来るのか、何を考えなければならないのか・・・。「いつのまにか戦前」となってしまわないよう、「いつまでも戦後」を守り続けるためにも、そのような体験を次に受け継ぐことは今に生きる私達ひとりひとりの役割でもあると改めて思う。

(インタビュー後記 村井裕子)

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